日本国内における製造業拠点の再生(第1回)
アベノミクスでモノづくり拠点は再生できるか
公益財団法人大田区産業振興協会
副理事長 山田 伸顯
今、日本の経済をめぐり最も話題となっているのがアベノミクスである。
昨年末、安倍首相が誕生し「3本の矢」の政策を打ち出した。1.大胆な金融緩和、2.機動的な財政政策、3.民間投資を喚起する成長戦略という基本方針である。中でも金融緩和において、新しく就任した黒田東彦日銀総裁は、デフレ脱却のために2%のインフレ目標を掲げて大幅に資金を供給する量的緩和に踏み込んだ。
1 デフレと円高の継続
バブル経済が崩壊した1991年以降、日本経済は低迷し、物価の下落が続くデフレという現象が続いてきた。モノやサービスの値段が下がるのは、生活するうえで結構なことだと思われるかもしれない。しかし、生産性が高まることで価格が下がるならまだ前向きであるが、購入意欲が低下したため、値段を安くしないと買ってもらえないという後ろ向きの状況が続くことになる。そうなると、モノやサービスを生産する人の賃金を下げざるを得なくなり、それでもまだ売れなくなると労働者を解雇することになる。住宅ローンを抱える人が失業したり、賃金が低下したりすれば、借金の返済は大きな負担となる。年金生活者も物価スライドで受給額が低下するため、デフレにより値下がりしても消費を増やすことはできない。
何よりも危ういのは、デフレマインドというしぼみ志向が根深く浸透するため、コストカットに集中するだけで、技術や産業を発展させる情熱が萎えてしまうことである。産業界においても、イノベーションを推進するといった気分が高まってこない。先進国の中で、デフレが継続している国は日本だけである。
さらに、デフレは財・サービスに対して通貨の価値が高まることを意味している。すると、海外の通貨との比較で、円が高くなる。リーマンショック後、円は単独で高いレベルを続けてきた。日本国内で生産したものは、他国で生産したものと比べて、為替相場に基づき割高になる。1ドルが100円のとき、1万円の商品は100ドルで販売できるが、1ドルが80円になると同じ1万円の商品は125ドルに値上がる。それでは、国際競争に勝てないので、値引きせざるを得ない。輸出メーカーも値引きするが、そこに納めている中小企業もコストカットを求められる。コストダウンが20年も続き、経営を圧迫された多くの企業が廃業していった。
中小企業の中には、生き残りをかけて海外生産に踏み切るところも現れてきた。現状では、得意先であるメーカーが海外シフトしたり、円高のため海外調達に切り替えられたりして、国内の企業に対する発注が激減している。
このままでは、せっかくモノづくり技術を工業高校で習得しても、日本に工場がなくなってしまう。若者が海外で活躍すると言っても、国内の現場体験で磨きをかけて、初めてできることなのである。
2 日本の国富とは
これまで製造業は、日本の国内生産を支える重要な産業であった。エネルギーや食糧、資材を海外から輸入し、高度な加工技術で生産した製品・部品を輸出して貿易のバランスをとってきた。
1981年から2010年まで、日本の貿易は30年間一度も赤字にならず、収支の黒字を持続してきた。
しかし、11年には東日本大震災を経験し、福島原発のメルトダウンによりエネルギー政策が大きな転換を迫られることになった。天然ガスによる火力発電供給を高める必要から、LNG(液化天然ガス)の輸入が急増し、輸出の伸びが停滞したことで貿易・サービス収支は426億ドルの赤字を計上、翌12年には1043億ドルの赤字となった。経常収支の黒字も11年で1192億ドル、12年で607億ドルとなり、従来と比べ大きく減少した。しかし、これまで日本は毎年経常収支黒字を積み上げてきたので、対外純資産合計が265兆円(平成23年末)という断トツの世界一となったため、配当などの所得収支が大きくなり、貿易収支の赤字を埋め合わせることができているのである。
円高が終わらない大きな理由は、この対外純資産の蓄積を海外諸国から評価され、円が安全資産と見なされているからである。しかし、貿易収支が赤字を続けていたのでは、経常収支がいつまでも黒字を続けるとは限らない。
そこでまず、世界一高く輸入しているLNG については、ロシアから調達したり、アメリカのシェールガスを導入したりするなど、輸入総額を抑制するために貿易交渉を行うことが必要である。
しかし一方、昨年末まで続いた超円高により、輸出競争力が低下したことが問題である。
もちろん円高に対抗できるほどの技術を開発し続けることが重要だが、異常な為替状況を放置してきたのは政策として大きな問題がある。前政権の円高対策は、ドル買いなどの為替介入を行ったが、一過性の効果に終わった。もともと通貨の強さは結構なことだと見なす政策責任者もいて、内需が高まれば良いとする「円高礼賛論」の学者に踊らされてきたようである。日本の国際競争力は円高など問題ではないというのは、現実の産業を担う企業の実態を見たこともない論者が唱えてきた絵空事である。
円高が進行する中、交易条件が良くなったかというと、この間の日本の交易条件は悪化が進んだ。本来通貨が高くなれば、輸入価格が下がるため、交易条件(輸出価格/輸入価格)は改善されると考えられるが、輸出力も低下するため、輸入価格以上に価格を下げて販売しているからである。特に電機産業は交易条件の悪化が著しく、輸出減少だけでなく、海外からの輸入に圧倒された携帯電話などに見られるように国内の販売でも停滞している。
そもそも日本が貿易立国だから、内需の増加に転換するべきだという論拠は間違っている。21世紀になってから景気を立て直すのに、輸出額のGDP に対する比率(輸出依存度)は、従来よりも高く17%までになった。しかし、海外諸国と比較すると、はるかに低い比率となっている(資料)。各国とも輸出に力を入れているのである。日本では、競争力を持った自動車、機械、電機の分野が輸出の70%以上を占めるとともに、国内産業のウェイトも大きく、中小企業に対する波及効果が高い分野である。国内生産拠点を拡充し、技術革新により輸出力を高めることが必要な産業政策である。
異常な円高は、海外への生産移転を促進し、国内の市場と雇用とGDP を縮小させるという意味で国富を損ねるものである。早急な対処が待ち望まれていた。
3 アベノミクスの登場
デフレと円高に深くかかわる機関である日本銀行は、戦後一貫してインフレに対処することに力点を置いてきた。日銀法は1998年に改正され、金融政策の独立性と業務運営の自主性を高める自律的な機関に生まれ変わった。
法改正の背景として、1.金融の枠組み全体に対する見直し気運の高まり、2.諸外国における中央銀行の独立性強化の動き、3.市場化・国際化に対応する日本の金融システムの再構築ということを示している(日本銀行ホームページ)。それまで財務省(大蔵省)の権限が強く及んでいたが、法改正以来、ゼロ金利政策の解除などの政策をめぐって政府との対立が見られるようになった。
15年に及ぶデフレに対して有効な政策が打てたかというと、極めて不十分であったと思われる。前白川総裁時代の政策に対しては、現在の日銀政策委員会の決定会合(4月3日~4日)で「物価上昇率2%の目標達成には、政策効果に限界があり、見直す必要がある」と厳しく評価されている。また「量と質の両面で、これまでとは次元の違う金融緩和を行う必要があるとの認識」が示されている。
黒田体制において、新たな量的緩和を導入するという政策転換が行われた。2年程度の期間を念頭において、物価2%上昇を早期に実現するため、マネタリーベース(資金供給量)を2012年末の138兆円から約2倍の270兆円に拡大、長期国債の購入量も2年で190兆円と2倍に増やすなど、小出しではなく必要な措置はすべて講じるとした。1年ぐらいは追加策を打つつもりはないとしている。
白川体制の下では、リーマンショック後にアメリカやEU が高い資金供給を行ったことと比して、極めて低い供給量であった。それ以前に資金量は十分に供給したからという論拠のようである。今回のアベノミクスに基づく黒田ショックは、これまでの日銀の方針と隔世の感がある。
年初から円高調整が続いてきたが、これを受けてさらに一段と踏み込んだ円安へと向かうことになった。そしてついに5月9日のニューヨーク市場で100円台に達し、10日の東京外為市場で101円台にまで下落した。アメリカの景況指標も改善したことが後押ししている。こうなると大手製造業を中心に為替差益が生じ、株価も上昇し、経常利益の上昇や社員のボーナスアップへと効果が表れてきた。
しかし金融面における景況感の改善が見られても、実体経済における波及効果は未だ明確に表れていない。グローバル展開した大手企業が国内に生産拠点を戻したり、設備投資を増加したりする動きは今一つである。輸入物価の上昇などで物価が高まっても、賃金が据え置かれたままでは消費需要が拡大しない。中小企業にとっては、原材料とエネルギー価格が高まっても納入価格が上げられるかは不明である。それでも、円高修正による受注増を見越して国内での増産体制を整えようとする中小企業が多くなってきた。
今後、機動的な財政政策を受けて、国内の産業基盤がどのように改善されるのかが問われてくる。モノづくりの分野では、政府が24年度末から補正予算として「ものづくり中小企業・小規模事業者試作開発等支援補助金」を計上し、25年度まで支援が続く。わが国製造業の競争力を支える「中小ものづくり高度化法」22分野の技術を活用した事業で、試作品の開発や設備投資等の取り組みであることが要件となっている。
次に、第3の矢である民間投資を喚起する成長戦略が重要である。人口が減少する日本は、もはや成長しないという議論はもっともの話に受け取られる。しかし、人口が減少しても、女性や高齢者の雇用を増加して生産活動に参加してもらうことや、技術の革新と資本の蓄積を進めることにより成長促進することはまだまだ可能である。デフレの克服には、何が今日のニーズとして要求されているかを認識し、そこに重点的な投資を行うことが必要だと考える。
4 アベノミクスの問題点と成長戦略の構築
アベノミクスにおいて、成長戦略がなぜ重要かと言うと、第1の矢である大胆な金融緩和が行われたが、実体面で資金が流れているわけではなく、相変わらず金融機関にお金は留まっているからである。実体経済において資金需要が拡大しなければ、日銀がいくらお金を供給しても効果が表れない。銀行から日銀が準備預金という形で当座預金を膨らませても、銀行は国債を購入するだけで、民間への資金貸付が行われなければお金は循環しないままで経済の拡大につながらない。
どのような分野に資金を投じるべきか。大企業は、国内に生産拠点を戻すなど戦略転換して設備投資を行うことが期待されているが、相変わらず海外投資に重点を置いている。国内での経済・産業活動を重視しているのは中小企業であり、環境変化に対応しながら、これからの日本における内需型産業の掘り起こしと輸出競争力を高める技術開発に力を注ごうとしている。
大田区は、機械産業のベースとなる基盤技術に特化した中小企業の集積地である。最終製品をつくる企業は少なく、部品の加工と製作を得意とする企業が大半を占める。こうした地域で成長戦略に関わる産業活動を紹介することで、今後の日本の目指すべき方向性を示唆したいと思う。
一つが、震災復興に寄与するべく、現地の水産加工業の工場再建に技術面で協力して、新しい生産設備の開発に着手した大田区の企業の事例である。被災地は人手不足なのに、おでんなどの加工食品を手作業で仕分け処理しなければならない。この仕分けのラインに導入する自動的な設備を考案し、工程の改善に取り組むことになった。それまで化粧品の生産設備には実績があったが、食品のラインは初めてである。顧客からは同社のチャレンジする姿勢が評価された。
次に、地方の農作業改善のニーズを受け、野菜の栽培や収穫における機械化の取り組みが求められている。
高齢化が進行したため、10年先では農作業の継続が難しくなっている。米の栽培においては従来から機械化が進んできたが、利益の高い野菜に関して技術開発はあまり行われてこなかった。機械・金属の技術は、もともと「村の鍛冶屋」から始まったのであり、ユーザーである農作業者の要求に応えて軽作業化に貢献できることは、中小製造業にとってやりがいのある仕事と思われる。安全でおいしい日本の農産物は、生産の機械化により競争力を高めることができれば成長産業として展開すると思われる。
さらに、医療機器開発に取り組もうとする中小企業が増加している。大田区には大学病院をはじめ各種の医療機関が多数あり、医療機器改善のニーズは大きく、また技量の高い職人による技術・技能のシーズも集積している。大田区では「医工連携推進センター」を設置し、医療機関からの課題を解決するべく中小製造業とのマッチングを強化している。日本には国際的な競争力を持った機械産業がありながら、医療機器だけは圧倒的にアメリカからの輸入に依存している。これが高額な医療費の一因になっているのである。国内の医療機器産業を育成することで、医療保険の負担軽減を図ることが期待される。また、高齢化が進行する日本で先進的な医療機器開発が行われることになれば、高齢化がこれから問題となる世界の国々への技術供与も可能となるはずである。
少子高齢化が深化する日本において、こうした分野を中心に需要は必ず拡大する。イノベーションを必要とする産業分野で成長戦略を築くために、国と自治体は企業の創造的取り組みに対し、インセンティブを与えるよう支援すべきである。
最後に、第2の矢である財政政策の問題点である。成長戦略を展開するための政策を実践する原資が財政である。しかし、これまでの財政運営はバラマキが目立ち、借金がとうとうGDP の2倍となる1千兆円の大台を突破しようとしている。日本人が大半の国債を買っているうちは、国の破綻を回避できるかもしれないが、高齢化が進むにつれ、貯蓄の取り崩しが大きくなり、あれほど貯蓄大国と言われた日本の貯蓄率がアメリカを下回るようになった。いずれ外国人に買ってもらわなければ賄うことができなくなる。
財政を健全化するためには、経済が成長した結果の財源を限度として支出を絞り込み、将来の世代につけを回してはならない。
GDP を高めるには、外需を取り込むことと、新たな内需に対応できる技術革新を推進することが必要不可欠な取り組みである。それには、世界最高のモノづくり技術を国内外で活かしきることが、今後日本の最重要戦略だと確信している。
公益社団法人全国工業高等学校長協会 機関誌「工業教育」7月号掲載
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